旅行記
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 旅行記 by Naoyuki Honzawa

パリ編(1996年12月31日〜1997年1月4日)


作曲家フォーレの墓

厳寒のパリ 訳も分からないうちに新年を迎える


961231 Tues

 ホテルの朝食はフランスパンとクロワッサン、ジャム、バター、そしてコーヒーまたはお茶という質素なものだが、夫婦の管理人とパートっぽいおばさんの感じが良くて、アットホームなところがグッド。旦那さんの方は決して英語を話さない頑固者。身振り手振りのやりとりだ。

 パリ最初の観光目的地はMusee d'Orsay(オルセー美術館)。Parais-Royal Musee du Louvre駅で降り、火曜日が休みのルーヴル美術館の中を通り抜け、セーヌ川のCarrouse橋を渡り、ここのルーヴル美術館を左に望む冬のセーヌ川の眺望が大変美しく、何枚か写真を撮り、オルセー美術館まで歩いた。ところが、横に長い建物の途中から長蛇の列。どこまで続いているのか、と入り口まで歩くと、入り口から反対方向へもう一つの列が。その列は向かいの大きな建物をぐるりとほとんど一周しそうな位の長さ。私達はどちらが短いか考え、セーヌ川の方へ延びている最初に見た方の列に並ぶことにした。

 これは実は間違った選択だったのだ。この日も厳しい寒さで、ほとんど進まない列に、日本から送ってもらった小さい使い捨てカイロを手袋の中に片手10分位ずつ交互に入れ、2人で寒さを防ぐようにくっついて並んだ。途中知らぬ間に前に割り込んでいたちゃっかり者の夫婦に、あまり通じない英語で抗議して追い出したり、という一幕も。美術館で並んだ経験といえば、ニューヨークの近代美術館位かも知れないが、そこでは係員がひっきりなしに、「こっちの列は常設展で、こっちはピカソ展です。」などのような説明があって安心できたのだが、ここではそういう気の利いた説明もないまま1時間以上は並んだ。建物の角をやっと過ぎて、入り口まであと20〜30mの時だった。前の方の人々の様子がおかしい。窓をドンドン叩いたり、回転扉を無理矢理回そうとしたり、別の入り口らしき方向に走り始めたり。そうしているうちに列の人々は騒然となり、この列の人達は入り口を閉められてしまった様なのだが、ほぼ全員で入り口の方へ押し寄せ始めた。皆この厳しい寒さの中で1時間以上も待ったせいか、当然怒っているようで、実は自分も納得がいかなくてかなり怒っていて、ずっと並んでいたことを抗議しようと思ったのだが、これ以上寒さに耐え切れそうになかった祐子の素晴らしい発案で、近くのカフェで体を暖めることにした。

 カフェオレとキッシュとクレープを食べた。狭いテーブルで落ちつかなかったが、冷え切った体が暖まり、祐子の発案が正しかったことに気付いた。しかしどう考えても納得がいかず、テーブルに思わず怒りをぶつけたりもして、片言の日本語を話すウェイターとのやり取りも少しも慰めにならなかった。

コープリー広場のトリニティー教会
パリ・シャンゼリゼ通りの中央分離帯にて、凱旋門を望む!

 店を出たのは恐らく12:30頃、私達はPlace de la concordeへとセーヌ川を渡り、Avenue des Champs Elysees(シャンゼリゼ通り)を歩いて凱旋門へと歩くことに決めた。シャンゼリゼ通りは途中まで緑に囲まれた美しい所なのだが、この時の私達には寒いだけで、やっと見付けたホットドック屋へ寄っては、コーヒーがないと言われ、ガッカリしたりしていた。途中通りを渡ろうとしたとき中央分離帯に取り残され、そこで通りと遠くに見える凱旋門を一緒に撮った。これはなかなか面白い写真になった。

 シャンゼリゼ通りでは、インポートものの店で、その日の夜ワインを飲むために、安いグリーンの曇りガラスのワイングラスを買ったり、CD屋でラヴェルの室内楽の新しいCDを買ったりした。ワイングラスは、この夜ホテルに着いた時には既に1個割れていて、もう片方も後にミュンヘンで荷物整理の際に捨てられることになる。ラヴェルのCDは、これを書いている今も聴いているのだが、その後お気に入りのCDとなる予定だ。

 Arc de Triomphe(凱旋門)を間近でみて、写真数枚を撮る。凱旋門の周りを半周して、ラヴェルの家があると某ガイドブックに書いてある場所を目指した。そのガイドブックは、体裁だけ格好付けて、実は何の役にも立たず、後に何度も破られそうになったり捨てられそうになったりするのだが、ラヴェルの家はなく、かつてアパートの一室がラヴェルの部屋で、そこでダフニスとクロエなどが書かれた旨のプレートが、2階の壁に埋めてあるだけだった。それでもラヴェルを崇拝する私にとって大きな感動だった。ここであのダフニスとクロエの夜明けの部分の、1万か2万位の細かい12連符を書いたのか。私達はラヴェルの部屋のすぐ下の、恐らくラヴェルもここでワインを飲んだであろう、なんて書くと格好いいが、そうは見えない新しいレストランで休むことにした。4時頃だった。まだ明るいのにワインを飲み、祐子は山羊のチーズが載ったトーストを、私は数種類のハムやソーセージなどが盛られたGreatな皿を頼んだ。

 酒の力を借りて少し落ち着いた私達は、日が暮れかけている寒いパリの空の下へと、しかしすぐに地下鉄に乗り、ホテルに戻って寝た。パリの地下鉄はロンドンのそれよりもはるかに近代的で、混み合うと入り口付近の椅子をたたんで、座れなくする所が合理的で良い。

この日は大晦日なので、シャンゼリゼ通りの凱旋門付近でカウントダウンや花火などが行われるのでは、と夜11時頃地下鉄に乗るためにパリ北駅へ歩いた。が、外は尋常じゃない寒さ。既に寒さにはうんざりだった2人は凱旋門に行くのを諦めて、北駅の向かいのカフェで新年をすごすことに決めた。

 店内はある種異様な雰囲気、というのは、私達の席から3メートル位のテーブルには、酔っぱらって騒ぎ立てる若い招かざる客達と、それに不服だが黙ってひたすら働いているウェイター、別のテーブルには若いカップルと旅行者らしい夫婦、そして、1人寂しく暗く新年を送ろうとしている若い旅行者らしき女性などがいたからである。なかなか注文を取りに来ないので、やっと来たウェイターに注文をしている時、気が付いたら年が明けていた。

 明けましておめでとう、などと日本式に挨拶を交わしていると、「Bonne annee! 」などと叫んでいる酔った若者がやって来て、祐子の両頬に軽くキスをする欧州風の挨拶をした。さらに私に握手を。一瞬の出来事にあっけに取られたが、挽回を!、と祐子と初キスをする。「Bonne annee! 」とは「新年おめでとう」の意味だということが、そのとき辞書により明らかになった。最初は「Mon ami!(私の友達)」と言っているかと思った。

 ホテルに戻ったのは夜2時頃。パートのおばさんが玄関を開けてくれたので、早速2人でBonne annee! を使う。

パリの正月はノートルダムで


970101 Wed

 パリの正月、元旦はシテ島のNortre Dame(ノートルダム寺院)で始まった。寺院の中に入ったとき、その荘厳さに、ヨーロッパに来て初めて観光らしき観光をしている自分たちに気付いた。ヨーロッパの旅って感じだよ、と2人で確認し合った。薄暗い建物内には、高く両側に大きなステンドグラスが美しく映えていた。大きなパイプオルガンに感動した私達は、オルガンやコーラス(グレゴリオ聖歌)の入ったCDを購入。相変わらず寒い外へと歩いていった。ソルボンヌ大学のあるQuartier Latin(カルチェ・ラタン)方向へセーヌ川を渡り、すぐに寒さをしのぐためにカフェに入った。

コープリー広場のトリニティー教会
妙に新しいドビュッシーの墓

 熱いカフェオレで体を温めた私達は、ローマ浴場跡を横目に、地下鉄St-Michel駅からOpera(オペラ座)へ向かった。オペラ座内にはこの日は入れず、以前ボストンでミュージカル「オペラ座の怪人」を見たことのある2人は、がっかりして建物前で記念写真。オペラ座付近でまた体を温めようと、やっと見付けたマクドナルドでハンバーガーとビールを飲んだ。パリだけでなく、ローマもミュンヘンもマクドナルドでビールが飲めるのだ。

 その後は観光客が1人もいないCimetiere de Passy(パッシー墓地)に行き、ドビュッシー、フォーレ、そして画家マネの墓参りをした。フォーレは奥さんや家族の名前が彫ってある古くていい感じの墓で、ドビュッシーは黒光りして妙に新しい墓。ドビュッシー崇拝者の私には、味のない新しい墓に少しがっかりした。

コープリー広場のトリニティー教会
エッフェル塔、セーヌ川、そしてスケーターたち

 パッシー墓地から歩いてすぐのPalais de Chaillot(シャイヨー宮)からTour Eiffel(エッフェル塔)を見た。平坦な地図からは想像できないのだが、シャイヨー宮は高台にあって、エッフェル塔が見えたときは、あまりに視界が開けていて眺めがいいので感動した。大きなテラスのような所をエッフェル塔方向へさらに進むと、シャイヨー宮のすぐ下にスケートリンクがあって、数十人のスケーターがいた。その向こうにセーヌ川の橋があり、対岸にエッフェル塔がそびえ立つのである。目を横に向けると、小さな四角い通気溝の上には、20羽位のハトがそれぞれ丸くなってひしめき合っていた。そこから暖かい空気が出ているらしく気持ちよさそうだ。スケートリンクも、ハト達も両方ともエッフェル塔と共に写真に収めておいた。

 よく覚えていないのだが、この後ホテルに戻り、また例によって夜10時頃まで昼寝して、マクドナルドでハンバーガーやチキンナゲットやビールを大量に買い込んで、ホテルで食べたのだと思う。

美術館をめぐる オペラ・バスティーユで不倫の現場を目撃?


970102 Thurs

 いつものようにカフェオレとパンを朝食にとり、私達は朝9:30頃ルーブル美術館へと向かった。入り口のピラミッドからは100m位の列が正方形を描くように並んでいた。オルセー美術館の時の悪夢がまたか...と嫌な予感がしたが、30分位で入場できたと思う。オルセー美術館に大晦日どうしてあれだけの列が出来たかというと、ルーブル美術館が火曜日で休館で、元旦は両方とも休館、つまりルーブル美術館に行くはずの観光客がオルセーにながれてしまった訳だ。それにしても、ルーブルのこの待ち時間も長かった。

 ルーブルに入り、チケットの列に並んだ。値段が表示よりも妙に安く、これで全部見られるのか、と不安になったが、別に問題なかった。この国は分かりやすく表示するとか、案内するとか、そういった配慮とは縁のない国なのかも知れない。日本語のオーディオガイドも2時間後にようやく使いこなせる様になるまで何度も捨てたくなった。ここは面白くないのではないか、という結論に至ってしまう前に、見どころを押さえる計画を2人で考えた。 しかし、レンブラントの絵を見ようとリシュリュー翼3階に行くと、その一角だけ閉ざされていて、午後1:30になるまで開けられないと言う。後に2時過ぎに戻ってレンブラントやフェルメールを見ていると、何の前触れもなくいきなり追い出されて、残る2部屋を見逃すという、またもや怒りに触れるような出来事があった。この時点で完全にルーブル美術館が嫌いになったのだが、落ち着いて見れば素晴らしい美術品の数々なのだろう。落ち着いて見たかった。

 ダ・ヴィンチの「モナリザ」は特別扱い、ガラスケースに納められて、決して触れられない様になっている。そこは常に人だかりが出来ているようだった。不案内著しいルーブルの中で徹底的に案内板の貼られていたのが、「モナリザ」と「ミロのヴィーナス」。不案内と言っても、フランス語がよく分かれば、かなり合理的に案内されているのかも知れない。ルーブル内に決して英語の表示はなかった。「ミロのヴィーナス」は、細長い部屋の真ん中に他の美術品と全く同様に置かれていた。そこにはモナリザのような異常な人の群がりはなく、私は前から、そして後ろからと写真に収めた。ルーブルに来ないで「ミロのヴィーナス」のヒップを見た者は、恐らく世界で千人もいないだろう。後ろから撮っているのは私だけだった。

 他に古代エジプトや「サモトラケの勝利の女神」、ドラクロワの絵などを見ていたが、レンブラントの怒りの件の後疲れてしまったので、ルーブルを出ることにした。オーディオガイドの機械を返すとき、私達が次か次かと番を待っていたのだが、後から来た中年女性が私達を全く気にせずに先に返すのが見えた。この国では番を待つという概念があまりなく、主張が強い方が先なのだ、ということがこの時確認された。順番を大事にする日本とアメリカに住む私達は、こういう些細なことの積み重ねにさすがにまいってしまった。

 ルーブルを出たらラーメンを食うぞ、と決めていた私達は、オペラ座近くの「ひぐま」というラーメン屋に向かった。北海道は札幌で食べた有名な「ひぐま」というラーメン屋と同じ名前のこのラーメン屋に、私は大きな期待をかけすぎていたのかも知れない。麺はまあまあだったが、スープはボストンのスターマーケットで6袋で1ドルの某日本食品会社の「オリエンタルフレーバー」のインスタントラーメンの方が500倍うまかった。祐子の言うように手前にあった来来軒の方に入れば良かったのかも知れない。オペラ座の近くには日本食レストランなどが多く、ちょっとした日本人街なのだ。日本っぽくない所を好む我々のような自由旅行者とっては、ちっとも嬉しい存在ではないのだが。

 この日はパリ北駅ですごくおいしかったアップルパイと小さいワインを買って、明るいうちにホテルに戻った。そして数時間後ホテルの近くに中華料理店があったのを思い出して食べに行った。しかし店内は狭く、セルフサービスなので、チャーハン・餃子・シュウマイなどを持ち帰って食べた。店内の高い棚の上に、私達がボストンの行きつけの中華料理店で愛飲している青島(チンタオ)ビールを見付けたとき、私は思わず「チンタオー!!」と叫んで、店の中国人らしきおネエさんに笑われてしまった。もちろんチンタオも2本買っていった。


970103 Fri

 朝少しゆっくりしてからオルセー美術館に向かった。列は短くすぐに入場出来て、ルーブルの時の教訓を活かして館内の見所を把握すべく、オルセー美術館の画集の日本語版を購入して、その解説を見ながら行動することにした。

 基本的に絵画だけを見た。ミレーの「落ち穂拾い」「アンジェラスの鐘」「ひなぎく」「春」などに感動し、「草上の昼食」「笛を吹く少年」のマネ、「かささぎ」「ひなげし」「サン・ラザール駅」「青の睡蓮」のモネ、「ムーラン・ド・ラ・ガレットの舞踏会」「都会のダンス」「田舎のダンス」のルノワール、「バレーの花形」「オペラ座の楽屋」のドガ、「トランプをする男達」や静物画などのセザンヌ、「自画像」などのゴッホ、「サーカス」のスーラ、ルドン、「蛇使いの女」のルソー、そしてゴーギャンなど圧倒的な印象派など近代美術のコレクションの数には驚くばかりであった。これら印象派の部屋は1階の天井の形状からは想像もつかないような「隠れた」2階にあって、案内図を見てそこにたどり着くのに苦労した。オルセー美術館は昔駅舎だったらしく、その面影が残っていていい感じなのだが、じつに妙な造りなのである。

 ほぼ一通り見てから、ミュージアムショップを見て、ポスターやポストカードの売場を見付けるのに苦労して、美術館を出た。大晦日に怒りながら寒さをしのいだカフェにまたは入り、熱いカフェオレを飲む。日本語を少し話すウェイターが、日本語混じりの英語でオーダーを取った。大晦日と違って余裕のあった私は、彼の日本語の発音が上手だと褒めた。日本に行ったことのない割にはいい発音だったから。余裕のあった理由は、美術館で一通り見た後、美術館の片隅のかろうじて座れる場所に座っていたら、たまたま足元から暖かい空気が出ていて気持ちよく、そこにしばらく2人でボケっと、高くて明るい天井などを眺めながら時間を過ごしたからだろう。暖かいということの有り難さを実感し、どこの建物に入っても暖かく、むしろ暑いくらいのアメリカの気前の良さを2人で見直したものだ。アメリカの冬の屋内は実に快適なのだ。

 この日前後にオペラ・バスティーユで催されていた、アメリカのキャストとオーケストラによるガーシュインの「ポギーとベス」を見ようと、オペラ・バスティーユに向かった。着くと何人かのダフ屋が声をかけてきて、建物内には20人位の列が既に出来ていた。30分以上並んでようやく当日チケットの販売。だが、私達の何人か前から売れ残ったチケットの値段が9000 円相当になったので、あきらめて建物を出た。

 実は私達の後ろに並んでいた日本人2人が何か怪しく、明らかに奥さんと子供がいる中年男性と、それに敬語で話す若い女性が手をつないで並んでいたのだ。私と祐子の結論によれば、男は単身赴任中で、妻と子を日本に置いて1人寂しくパリに住んでいたが、今夜はバスティーユでちょっとお洒落なオペラでも、と不倫相手の若い女性を誘ってここに来てしまった、ということになる。私はそんなドラマみたいな設定に、不思議と妙に嬉しくなってしまった。パリが2人をそうしたのね。それにしてもあの中年男に男性的魅力があるとは思えず、あの女お金が目的なのね...、と思わず想像が飛躍していく私達であった。

 そろそろローマ行きの列車を予約しなければならないと思って、ヨーロッパ南部の玄関口Gare de Lyon(リヨン駅)まで約800メートルの道のりを歩いた。バスティーユ広場のColonne de Juillet(7月革命記念柱)を背にして。リヨン駅は北駅の質素で殺風景な感じとはまるで逆の様相だった。バッグパックの若者など、あらゆる種類の旅行者でごった返していて、後にイタリアの各駅で見るようなどこか庶民的な市場のような、あるいはヨーロッパ特有の階層社会の縮図のような光景だったのだ。パリにある主要な駅の数々は、それぞれの主な行き先に住む人々の気質をそのまま表しているのかも知れない。

 そのときの予定では、4日にパリ郊外の、ベルサイユ宮殿のあるile de France(イル・ド・フランス)を観光し、その日の夜ローマ行きの夜行寝台に乗って、5日からすぐローマ観光に移ろうと思っていた。しかしローマ行きの寝台は人気が高く予約が埋まっていたので、鉄道の予約はほとんどいらないという某ガイドブックをねたみながら、やむを得ず次の日早朝7:12発のミラノ行きに乗ることにした。5泊と結果的に一番滞在期間が長かったパリと、いきなりおさらばする事になった。始めは「なんて街だ」と怒ることも度々だったが、慣れればさすがに魅力的な街。ラテン人が図々しければ我々も図々しくなればよい。ここでは他の人種に接するためのコツをつかんだようだ。

 ホテルに戻って早速、明日早朝に発つことを告げる。そのときパートのおばさんしかいなくて、クレジットカードで精算するときに、彼女はレジスタの使い方を間違ってしどろもどろになってしまった。電話でボスを呼んで、英語の話さないボスが丁寧に身振り手振りでいきさつを説明してくれて、ことは解決した。英語も少し話すいい感じのおばさんなのだが、機械は苦手だったようで、あわてて「ララララ...。」とどもっていたのが印象的だった。

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